今週の読書は専門書のほか新書や小説も含めて計6冊
今週の読書感想文は以下の通りです。
今年の新刊書読書は1~8月に215冊を読んでレビューし、9月に入って先週までに計22冊をポストし、合わせて232冊、本日の6冊も入れて238冊となります。目標にしているわけでも何でもありませんが、年間300冊に達するペースかもしれません。なお、Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。それから、瀬尾まいこ『図書館の神様』(ちくま文庫)も読んでいて、すでにFacebookとmixiでシェアしています。新刊書読書ではないと考えられるため、本日の読書感想文には含めていません。
まず、ジューディア・パール & ダナ・マッケンジー『因果推論の科学』(文藝春秋)を読みました。著者は、米国カリフォルニア大学ロサンゼルス校の研究者であり、コンピュータ科学者、哲学者、それと、科学ライターと紹介されています。英語の原題は The Book of Why であり、2018年の出版です。巻末に東大の松尾豊教授が解説を寄せています。本書では、因果推論に関して、当然といえば当然ながら、確率論的なアプローチを取っています。そして、因果推論については3段階を考え、p.52にあるように、第1段階では見る能力、観察に基づく関連付け、第2段階では行動する能力に基づく介入、そして、第3段階では想像する能力に基づく反実仮想を想定してます。ただ、本書は参考文献や索引を含めれば600ページを超えるボリュームながら、第1段階で軽く300ページを超えますから、導入部に主眼をおいているのではないかと私は感じています。ですので、そもそも「因果」とは何かについても、それなりに哲学的な考察を加えているのですが、私のようなエコノミストにとって重要性の高い時系列的な考えは紹介されていません。すなわち、因果関係の重要なひとつの要素として、原因が時間的に先行して、結果は後に来る、というのがあります。ですので、私なんかはエコノミストとして原因と結果がスパイラルのように入れ替わる可能性を認めます。典型的には、現在の岸田内閣が提唱したような好循環の経済です。単純化すれば、景気がよくなって物価が上がってデフレを脱却し、さらにマイルドなインフレが景気を刺激し...という経済循環が上げられます。すなわち、因果関係はそれほど単純ではなく、ある事象Aが別の事象Bの原因であるが、時間の経過とともに、逆に、BがAの原因となる局面に変化することも考えられます。そういった時系列的な流れの点には本書の視点は向けられていません。私はこの方面は詳しくないのかもしれませんが、ひょっとしたら、こういった循環的、というか、インタラクティブな双方向の因果関係を考えるのはエコノミストだけなのかもしれません。ただ、本書で優れているのは因果関係を確率的に考える点とAIまで視野に入れている点です。第2のAIについては、私も一知半解で十分に理解したかは自信がありませんので、読んでいただくしかありませんが、確率的に因果関係を捉えるというのはしばしば忘れられている点ですので強調しておきたいと思います。もちろん、確率を不要とするような決定論的な因果関係も世の中にはいっぱいあります。例えば、セックスと妊娠は統計的にはほぼほぼ無相関ですが、決定論的にセックスが妊娠の原因であることは、多くの日本人は認識していることと思います。そして、本書では明言していないものの、統計とは確率の別表現である点も重要です。ただし、統計的な確率は決定論的な確率に漸近的に収束するだけです。サイコロを考えれば、極めて多数回の試行により、それぞれの目の出る確率は⅙に近づきますが、どこまで行っても⅙にはならない可能性が高いことは十分理解できると思ます。最後に、第10章においてAIとの関係で、そう詳しくもない私も考えさせられる点がありました。すなわち、意図的であるかどうかの問いです。英語なら intentional だと思うのですが、意図的に何らかの結果をもたらすべく行動する、あるいは、行動をやめておく、というのと、意図的でなく結果がもたらされる関係との差異をどう考えるか、について重要な問いを本書では発しています。エコノミストは、というか、私は意図的であるかどうかに重要性を見出すことはしません。よくない例かもしれませんが、意図的な殺人であれ、偶発的な事故であれ、人が死ぬという結果をもたらした原因に重きを置くことなく、非常に物神的で良くないと受け止める人がいるかもしれませんが、労働力として、あるいは、消費者として1人が欠けた、という受止めです。たぶん、経済学はこれに近い考えをしますが、法律では意図的な殺人か、偶発的な事故かは大きな違いがあります。この意図的と偶発的の違いが強調されるのであれば、社会科学の分野として経済学よりも法学の方がAI研究に向いている可能性があったりするんでしょうか。現時点では、私には何ともいえません。
次に、法月綸太郎ほか『推理の時間です』(講談社)を読みました。著者の1人の法月綸太郎は、本書のスーパーバイザーを務めており、京大ミス研出身の新本格派のミステリ作家です。収録されているのは短編が6話であり、2話ずつが whodunnit と whydunnit と howdunnit、すなわち、犯人が誰であるかを推理するミステリ、動機を推理するミステリ、そして、犯行方法を推理するミステリにカテゴライズされています。収録順に、法月綸太郎「被疑者死亡により」と方丈貴恵「封谷館の殺人」が whodunnit の犯人の推理、我孫子武丸「幼すぎる目撃者」と田中啓文「ペリーの墓」が whydunnit の動機の推理、北山猛邦「竜殺しの勲章」と伊吹亜門「波戸崎大尉の誉れ」が howdunnit の犯行方法の推理、となっています。加えて、読者への挑戦状があり、問題編と解答編が分かれていたりもします。しかもその上に、スーパーバイザーの法月綸太郎を中心に、作者が別の作者の作品の謎解きにも挑戦しています。とてもよく当たっている結果もあれば、まるで的外れなのもあります。そのあたりは読んでみてのお楽しみです。ミステリですので、アッサリとあらすじを紹介します。法月綸太郎「被疑者死亡により」は、交換殺人の疑いをかけられた男が法月に依頼に来るところから物語がはじまります。交換殺人のもう1人の容疑者が料理人であるにもかかわらず、家に食べ物がいっさいなかった理由が秀逸です。方丈貴恵「封谷館の殺人」は、タイトル通りに密室の館ものです。館の主人が殺害され、使用人に扮していた泥棒が、ふりかかる疑いを避けるべく犯人について、体重からの推理を繰り広げます。我孫子武丸「幼すぎる目撃者」は、フツーに幸福そうな一家で、妊娠中の妻が夫を刃物でメッタ突きにして殺害します。その妻の犯行の理由を推理します。本書の中ではもっともレベルの高い出来だと思います。田中啓文「ペリーの墓」は、江戸末期の黒船来航のタイミングで不審な死体が見つかり、なぜ彼が殺されなければならなかったかを推理します。黒船のペリーとペルリの違いに着目です。北山猛邦「竜殺しの勲章」は、第2次世界大戦中のフィンランドで、当時のソ連と戦っているフィンランドがソ連の敵であるナチス・ドイツから支援されて送られた大型砲の輸送中に、ナチス将校を殺害する方法を推理します。伊吹亜門「波戸崎大尉の誉れ」は、これも大戦中の中国満州で軍需物資の横流しの噂が流れ、ジャーナリストの軍属が査察に来たところ、重傷を負ったはずの内部告発者が姿を消します。もっとも疑いの強い人物が犯人なのですが、犯行方法を推理します。本書でもっともレベルが低いと私は感じました。ある意味で、whodunnit の犯人推理がミステリの王道といえる一方で、逆に、whydunnit の動機の推理のプロットは難しいんだろうと感じます。その中で、我孫子武丸「幼すぎる目撃者」はアッと驚く超意外な犯行動機でした。いずれにせよ、続編が出ないかと期待しています。大いに期待しています。
次に、満薗勇『消費者と日本経済の歴史』(中公新書)を読みました。著者は、北海道大学の研究者であり、ご専門は日本近現代史です。ですから、エコノミストではなく、本書のタイトルはあくまで消費者となっていて、マクロ経済の消費ではありません。大衆消費社会とか、歴史的な視点で消費者を捉えようとしています。戦後日本の闇市から始まって、高度成長期のテレビ、洗濯機、冷蔵庫の三種の神器、1970年代石油ショックのころの狂乱物価とトイレットペーパーなどの買いだめ行動、1980年代後半バブル経済期のブランド志向に反し、バブル経済崩壊後、さらに、デフレ期に至るファストファッションなどの安価な商品への志向の高まり、などなどを歴史的に把握しようと試みています。また、同時に、最近時点で注目されている推し活やカスハラなども消費や消費者のひとつの側面を映し出しているような気がします。ということで、本書でスポットを当てている点はいくつかあるのですが、私が注目するのは、ダイエー・松下戦争、堤清二とセゾングループのビジョン、セブンイレブンなどのコンビニの衝撃、お客様相談室の誕生などです。まず、ダイエーは「主婦の店」と称してスーパーの1業態として発足しましたが、安売りをひとつの目玉に掲げ、逆の供給サイドからすれば価格決定力の喪失につながることから、長らくダイエーと松下、現在のパナソニックが反目する状態が続いていました。でも、時代は消費者が「王様」から「神様」になるところであり、水道理論に基づいてコストから小売価格を算定するメーカーではなく、消費者にとってのバリューから価格を小売店で設定する方向に変化しつつある象徴であった、と本書では解説しています。ただ、本書でも指摘しているように、顧客満足度を追う企業は、ある意味で、ジレンマに直面します。すなわち、ある時点での満足度が次の時点の期待度を高めてしまい、消費者の期待がどんどんと高まってしまう、という現象に直面します。そして、このころから消費者ではなく、客とか顧客という表現を企業は用い始めます。消費者相談室からお客様相談室への衣替えです。そして、客からの商品・サービスに関する評価やクレームを基に商品開発を進める、という姿も出始めます。最後に、現在の消費者は、カスハラといったネガな部分もありますが、応援消費や推し活も盛んですし、さらに進んでSDGsとの関係からもエシカル消費も伸びていると本書でも指摘し、そういったさまざまな消費の方向性を論じています。私の感想は2点あります。まず、消費者相談室からは、画期的なイノベーションは生まれない可能性が高い点です。フォードの言葉ではありませんが、「顧客の要望は、もっと早く走れる馬がほしい」というこであって、自動車というイノベーションは消費者の評価やクレームからは生まれないような気がします。その点で、供給サイドでは企業が主たるプレイヤーになるべきである、というのが私の見方です。もう1点は、トフラーのいった「プロシューマー」をどう考えるか、です。トフラー的な「プロシューマー」ではありませんが、メルカリなどでC2Cビジネスが拡大していることは明らかで、企業から消費者への商品やサービスの流れだけではなく、消費者が自ら商品やサービスを生産して別の消費者に提供する、という流れをどう考えるべきか、私はまだ定見を持ち合わせませんが、興味ある展開ではなかろうかと考えています。
次に、濱口桂一郎『賃金とは何か』(朝日新書)を読みました。著者は、労働省(旧)のご出身で、労働政策研究・研修機構(JILPT)の労働政策研究所の所長です。エコノミストではありませんから、タイトルに引かれて読んだ本書でも、経済学的な賃金についてはほとんど何も解明されていません。すなわち、本書は3部構成となっていて、第Ⅰ部が賃金の決め方、第Ⅱ部が賃金の上げ方、第Ⅲ部が賃金の支え方、となっています。その上、第Ⅰ部がボリューム的に過半のページ数を割かれており、日本の賃金の決め方の歴史が延々と展開されています。経済学的な決まり方ではありません。その意味で、歴史の勉強にはなりますが、戦後日本の労働慣行の大きな特徴である長期雇用と年功賃金が経済学的には補完関係にある点などは、誠に残念ながら、それほど詳しく言及されているわけではありません。エコノミストの目から見て、本書のタイトルの問いに答えるとすれば、賃金のもっとも重要な本質のひとつは要素所得である、ということになります。もう少していねいに表現すれば、経済活動あるいは生産活動が行われ付加価値が得られた後に、その付加価値が経済活動あるいは生産活動に参加した生産要素の間に分配されるうちの労働の取り分、ということになります。もう一方の取り分は資本に配分されます。なお、マルクス『資本論』第3巻最終章のように3大階級を論じるとすれば、労働と資本のほかに土地を提供するグループ、あるいは、マルクス的に階級への分配もあり得ます。ですから、賃金を上げようと思えば、極めて単純には2つの方法があり、付加価値を高めるか、付加価値の配分を労働に有利にするか、ということになります。後者の観点からは階級闘争が発生しても不思議ではない、ということになるかもしれません。ただ、私はそのあたりは詳しくありません。1点だけ付け加えておくと、生産活動に参加する労働を増やして付加価値のうちの労働の取り分を増やそうとしても賃金は上がりません。労働投入を増やせば、付加価値のうちの労働への分配は増加すると考えるべきですが、1人当たり、あるいは労働時間当たりの賃金は増えません。ですから、賃金上昇の目的をもって付加価値を高めるためには、資本の取り分を増やさずに資本を多く用いて生産するか、労働生産性を高める必要があります。経営サイドは後者を主張することは広く知られた通りです。もうひとつの方法は労働の取り分を増加させることです。付加価値の分割は分配率と呼ばれます。労働分配率と資本分配率なわけです。そして、1990年代からかなり長期に渡って労働分配率が低下していうことは経済学の大きな謎とされています。その昔、カルドアの定型化された事実 Kaldor's stylized facts のいの一番では「労働分配率と資本分配率が長期間でほぼ一定」というのがあったのですが、完全に崩れています。いくつかの統計で企業の利益剰余金が積み上がっている一方で、賃金がまったく上がっていない、日本の賃金は韓国にも抜かれて先進国の中で最低レベル、というのはエコノミストの間で広く確認されていところです。でも、階級闘争が激化したり、ましてや革命に至ったりすることは目先まったく予想されず、政権交代すら見込めないのは私には大きな謎です。
次に、まさきとしか『あなたが殺したのは誰』(小学館文庫)を読みました。著者は、ミステリ作家です。本書は、警視庁のやや変わり者の三ツ矢秀平刑事と戸塚警察署の田所岳斗刑事のコンビによるシリーズ第3弾です。一応、前2作の『あの日、君は何をした』と『彼女が最後に見たものは』については、私はどちらも読んでいます。2時点2地点の異なるストーリーが交互に進みます。ひとつは1993年バブル経済崩壊後の北海道鐘尻島を舞台とする過去パート、もうひとつは2020年代の東京を舞台とする現在パートです。さらに、本書は3部構成であり、第1部「彼を殺したのは誰」、第2部「彼女を殺したのは誰」、第3部「あなたが殺したのは誰」となっています。事件としては、現在パートでマンションの部屋で頭から血を流している永澤美衣紗が発見され、死亡が確認されます。しかし、部屋にいたはずの生後10か月の乳児である永澤しずくが見当たりません。部屋には「私は人殺しです。五十嵐善男」と書かれてた紙が落ちていたのですが、署名の五十嵐善男は2か月前に起きた強盗殺人事件の被害者でした。この殺人事件・誘拐事件を東京の三ツ矢と田所のコンビで捜査に当たります。他方、バブル経済崩壊後の北海道の離島では、小寺忠信とその父親が経営する島唯一の料亭である帰楽亭が別館を建設し始めたころに、「リンリン村」と呼ばれる巨大リゾート開発が頓挫し、料亭経営が苦境に陥ります。また、本土から移住してきてビストロときわを経営する常盤恭司の妻である常盤由香里は、娘の小学4年生の常盤結唯を札幌の英語塾に通わせたりして、島からの脱出を企図しています。そんな中、帰楽亭の別館建設を請け負っていた建設会社経営の殿川宏が小寺忠信を刺殺します。その後、殺された小寺忠信の妻である小寺則子と常盤恭司が行方不明になりますが、連絡船の船長である熊見勇吉の目撃により駆け落ちしたのではないか、札幌に住んでいるのではないか、といった噂が流れます。小寺忠信と小寺則子の倅である高校生の小寺陽介は帰楽亭を継ぐことを諦めます。ということで、ミステリですのであらすじはこれくらいにしますが、要するに、三ツ矢と田所のコンビが解き明かすべき謎は永澤美衣紗を殺害した犯人、そして、連動して永澤しずくの捜索となります。なお、蛇足ながら、五十嵐善男が被害者となった強盗殺人事件も同時に解明されます。シリーズ3作を読んで、ハッキリいって、最初の『あの日、君は何をした』がもっとも意外な結末だったと私は感じたのですが、ミステリとしての完成度や謎解きのクリアさからいって、本作品がもっともレベルが高いと私は感じました。ただ、第3部「あなたが殺したのは誰」の最後の最後、殺された永澤美衣紗が何者だったのかという点については、まあ、異論あるかもしれません。最後の最後のさらに最後の付足しで、三ツ矢の上司である切越係長の引きによって田所が警視庁本庁に異動するようですので、このシリーズはさらに続くものと予想されます。私は楽しみです。
次に、南綾子『婚活1000本ノック』(新潮文庫)を読みました。著者は、小説家なのでしょう。本書を原作にしてフジテレビで福田麻貴主演のドラマになっています。冒頭第1話でのp.11に「わたしの身に実際に起こったできごとであり、登場するすべての人物・団体はマジで実在する」とあり、まるで、『ダ・ヴィンチ・コード』で有名になったダン・ブラウンのラングドン教授シリーズのような書出しとなっています。主人公は作者と同じ南綾子であり、30歳を少し越した独身、エロ小説も引き受ける売れない小説家という設定です。ドラマの方は見ていないので何ともいえませんが、本書は連作短編集のような形で6話から成っています。もちろん、タイトル通りにすべて主人公である南綾子の婚活の記録です。ちなみに、ドラマの方は10回の放送だったと聞き及んでいますが詳細は不明です。6話の構成は、第1話で主人公について回る幽霊の山田クソ男が登場し、この幽霊とコンビで、というか、オススメで婚活を行うことになります。ビジュアルは表紙画像の上の方に現れる男だと思います。続いて、第2話が青山のマンションで開かれたお料理合コン、第3話が新宿で開かれたお見合いパーティー、第4話が親戚の叔母が持ち込んだ伝統的なお見合い、第5話がマッチングサイトの利用、第6話が地方の嫁取り系のイベントへの参加、となります。私が感銘を受けた名言はp.78にある「婚活とは、巨大なゴミ箱の中に落としたコンタクトレンズを手探りで探すようなものだと常々思う。」というのがあります。まったく、その通りです。私は結婚が遅い方で、30代も後半に差しかかったタイミングでした。すべてバブル経済が悪いわけです。すなわち、私はもう60歳で公務員の定年を過ぎ、65歳の大学教員の定年も過ぎて60代後半に差しかかっているのですが、1985年から1990年くらいのバブル経済の期間はまさにアラサーのころであり、今はもはや死語となっている「結婚適齢期」だったのですが、あの狂騒狂乱の時代に結婚する必要をまったく感じませんでした。他方で、お相手となる候補者たちも、京大経済学部を卒業していながら公務員をやっているなんて、アノ時代に目端の利かない人物である、という評価でした。というか、そうだったんだろうと思います。したがって、結婚もせずに独身のまま、在外の大使館に赴任して、経済アタッシェとして楽しく海外生活を送った後、1990年代半ばに帰国すると、バブル経済はすっかり崩壊し、就職は超氷河期に入っていて、公務員試験は難関となっていました。エコノミストとしてあり得ないと理解はしつつも、あのままバブル経済が続いていたら、私も婚活に力を入れる必要が大いにあったかもしれません。
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